華氏911を見た その2

映画で見た全てを鵜のみにしたわけではない。
「見せられたものだけを信じるな」と訴え「その裏には何があるのか」を追求するムーア監督の作品であればこそ、映画そのものも盲信すべきではないだろう。
同監督の前作・ボウリング・フォー・コロンバインよりも更に直接的で強いNOというメッセージ、政治色が濃いというより既にこれが政治そのものであるとも思う。

だが傷つき死んでいくイラクの子供達の映像を見れば「戦争は間違っている」と感じ、アメリカのメディアが亡くなった米兵の棺を映さないと聞けばそのバランスのあまりの悪さにぞっとする。その感覚は強制されたものではないはずだ。
米兵である子供をなくした母の嘆きは胸をうつ。涙を流しながら、同時に「これは監督がまさに言ってほしかった言葉だろう、台本などはなくても何を選択するかは監督の思惑どおりになるんだよな」と多重人格的な見方もした。
それは子を亡くした母の嘆きを軽視するものでは決してないけれど。

映画の最後に出てくる言葉(敢えてここでは書かない)は、見ている間中ずっと私も心の中で唱えていたものだった。
それは米大統領だけではなく追従する人々にも言いたい言葉だ。
この映画を「思想的に偏ったものは見たくない」と言ったあの人にも。
その偏りはこれまで無意識のうちに与えられてきた偏りを矯正するために必要なものかもしれないですよ、ともう一言添えて。

もうひとつ胸に浮かんだ言葉があった。
「それでもイラクの人達を嫌いになれない」…イラクで人質となった高遠さんが絞り出した言葉だ。
彼女たちを巡って自己責任という言葉がとり沙汰されたのは数ヶ月前だが、私は今もそのことに違和感を覚え続けている。
高遠さんが日経ビジネスのインタビューに答えた記事を読み、その気持ちは更に深まった。
彼女がイラクの子供たちに無償でしてきたこと。
拘束されてもなお犯人達を憎めず、彼らに「アメリカ人を憎んではいけない」と言い続けたこと。
それらのことを淡々と語り自分の認識の甘さを平身低頭で詫び、かの地で待つ子供たちに思いを馳せる彼女を責めた日本人。
余談ではあるが、先日見た舞台「鈍獣」に彼女の言葉をもじったものがあった。あらゆるタブーに挑戦しパロディにしようとする感覚はわからないでもないが、これだけは不快だった。
彼女の言葉を軽く扱えるほど私達はエライのか。

その3へ続く