「誰も知らない」について…まとまらないままに、2

これを見た時も思ってしまった。
じゃあ、なんで産んだんだろう?育児が出来ないと認識できなかったから?4人も産むまで分からなかったのか?
殴る蹴るという行為だけではないのだ、虐待というのは。
ネグレクトと呼ばれる育児放棄も虐待のひとつの形…きっと母親本人達も闇を抱えているのだろうけれども…。

映画の母親はちゃんと子供に愛情を注いでいるシーンもあったが(それがまた逆に辛い)、恐ろしいほど我が子の痛み(保護すべき親が不在という事実、まともに学校さえ行けない毎日、生活していけなくなるほどの貧困、空腹)に鈍感だった。
想像できなかったわけではないはずだ。想像したくなかったのだろう。なんとかなると思いたかったのだろう…この映画のモデルとなった実際の事件の母親がどんなつもりだったのかはわからないけれども。
いずれにせよ、棄てたのだ。それがわかってさえも子供は母親を欲していたというのに。

責任は当然父親にもある。ドキュメンタリーでも映画でも父親の存在はぼやけてみえなかったけどそれがまず、根深い問題ではなかろうか…。
母性に期待しすぎる世間も歪んでいる。
よその子供に無関心な風潮も病んでいる。

生まれてきた子供に罪はないのに一番心身の痛手を負うのは子供だ。
それがなんともやるせない。
なんとかしてライ麦畑の捕まえ人になれないものか。
たったひとりの自分の子供で手一杯なくせに偉そうに…でも真剣にそう思う。
だけどなー!何が出来るんだろう、本当に。

「子供一人育つためには村中の人が必要」(アフリカのことわざ)

これは先日教育TVでやっていた番組「子供たちの‘心の闇’を越えて」で紹介されていた言葉だ。

自分の子供だろうとそうでなかろうと。
村に子供がいる限り一緒に育んでいこうとする心を発達させることが大事なんだろうな…言うは易し。
そしてやはり、映画の感想としてはまとまらず。

見終わったあとに呆然自失の状態でパンフレットを買うことさえ思いつかなかったので、数日後に見るという友人に頼んでしまった。
そのうちそれを読めたら、また付けたしの感想を書くとします。

この映画の涙の後味は、ひたすらに悲しくて苦くてカタルシスは得られない。
それでも多くの人に見て欲しいと願う映画です。