鳥皮の話ではなくて

赤鬼の感想を書いている途中ですが。
今日は他の話を。

新潟の地震で生き埋めになっていた2歳の男の子が助かった。
救出の瞬間を固唾を飲んで見守り、お母さんも3歳のお姉ちゃんもなんとか一命は取りとめていますようにと祈っていた。
しかし奇跡はそう何度も起こるものではなかった…。
TVの報道は情報が錯綜し、三人とも無事だとかお母さんの声が確認されたとかテロップで流す局もあったので期待していたのだが。
2歳の男の子を含めてこのご家族が負った傷は想像して余りある。
もちろん他にも多数、地震で亡くなった方がおられる。
地震だけではなく今年は台風などの被害も多かったから、自然災害で突然に家族を奪われた人たちが大勢いらっしゃるのだ。

人間は等しくいつかは死んでしまう。
だが突然にもぎとられるようにたわわな命が断たれてしまうのはなんと無念なことだろうか。
天災だからと歯を食いしばるしかないのか。

それが天災ではなくテロや戦争であったならば。
大切な人を奪われた人の気持ちが無念から恨みと憎しみに変わるのは当然の流れに思える。

イラクでまた日本人が人質にとられてしまった。
報道で知る限りの彼は無謀としか言い様がないけれど、手を尽してたわわな命を助けて欲しい。「自己責任」の一言で切り捨てて欲しくはない。
ある部分は非常に涙もろく情に厚いのに、ある部分は恐ろしいほど冷淡。
そんな日本人がどんどん増えている気がする。

土砂崩れの現場でハイパーレスキュー隊が必死で救出作業を続ける映像をみながら思った。
画面に感情移入し、祈ることはさほど不自然なことではないだろう。
だが他にニュースがないわけでもないのにどの局も一斉に同じ情報を送り続けるのは不自然だ。
視聴率がとれるから、感動を呼ぶから…そんな思惑を勘ぐってしまう。
こんな風にTVに飼いならされているからおかしくなるのかもしれない。
能動的にTVと付き合いたい。

そして、鳥の皮の話なんかをして笑っていられる人生がいいっす。
ね、龍馬さん。
私にとっての鳥皮はスマでありお芝居であり本であり映画であり。

次回はそんな鳥皮の話を書きたいもんです。