送り迎えの道すがら

ドラ(息子・仮名)が入学して1ヵ月あまり。
新しい生活リズムにもなんとか馴染んできた。

名残の桜・木蓮・新緑・五月晴れ・つつじ・薫風・梅雨の走り

毎日の送り迎えで目にするもの、肌で感じるものはだんだんと移り変わる。
晴天がなかなか続かず傘をさして歩くことが多いが、足元を気にしながらも季節の声に耳を傾けられるのはそれなりに幸せな日々だと思う。

帰り道、迎えに来た私を見つけると顔中で笑ってドラが駆けてくる。
生意気を言ったり反抗的な態度をとったりすることも多々あるドラだが、このときばかりは途方もなく可愛い。

秋田の男の子もきっと同じような笑顔を家族に見せていただろう。
家まであと数10メートルのところで消息不明になってしまう。
家族が遺族となってしまう。

季節はその瞬間に止まるはずだ。

親としてどこまですればいいんだろうかと日々悩む。
あまりに過保護なのはよくないが、このような悲痛なニュースに触れるたびに「何か起こってからでは遅い」と思う。
少しずつ子供だけで歩かせる距離を伸ばしてはいるけれども、通学路の危うさを目の当たりにする日々なので「いってらっしゃい」「おかえりなさい」の言葉にいつも祈りを込めている。

教育基本法がどうとか少子化対策がどうとか言う前に。
今ここで生きている親と子供が安心できる環境と信頼できる教育の場を作る対策が先なんじゃないか?

共謀罪とやらで「組織的犯罪」を糾弾したいらしいが、もっと目を向けるべき「弱者に対する犯罪」は野放しになっていないのか?

それともすべて親の責任だとでも言うんだろうか。
教育がなってないのは親の責任。
通学途中の危険回避は親の責任。
アイコクシンが薄いのは親の責任。

家庭の形は様々だ。
片親、二親、三世代同居、専業主婦、共働き、共失業。
それぞれ事情が違って、限られた選択肢の中から良かれと思う道を暗中模索しているのだ。
子供だって欲しいけどできないとか、いらないのにできてしまったとか、もう一人産みたいが産めないとか、産んでみたものの事実上の母子家庭状態で半ノイローゼとか。

それなのに出産数値目標なんていう奇天烈なものを作るしか能のない政府には、責任の取り方もわからないらしい。

責任なんて取らなくていいからこれ以上メイワクかけないでくれ。
それとも悪法と借金まみれにするのが国を愛する態度なんですかね?