今更ながら…「ロープ」を観た その1
1月21日シアターコクーン、野田秀樹作・演出のロープを観た。
キャスト:宮沢りえ、藤原竜也、渡辺えり子、橋本じゅん、宇梶剛士、野田秀樹ほか。
野田さんの舞台は油断がならない。
うわー面白いなーと笑っているうちにのっぴきならない場所に連れて行かてしまう。
今回の作品は場面転換が一度もなく、最初から最後までプロレスのリングが舞台の真ん中やや奥に鎮座している。
そのリング上や周囲で活き活きと動く役者さんたちに見惚れたり、誇張されて喜劇的な台詞や人物描写にウケたりしていると、ついテンポの良いコメディを見ているかのような気分になってしまう。
だが、そのリングは物語の終盤で戦場になってしまうのだ。
‘ミライ’の村と言いながらそれはまさに60年代ベトナムのとある村を恐ろしいほどに再現してみせる。
熱帯雨林の豪雨のように、これでもかこれでもかと壮絶な殺戮の様子が怒涛の言葉となって降り注いでくる。
常軌を逸した兵隊の恐怖と狂気が視覚からだけではなく毛穴からも入り込んできて、身動きが取れなくなる。
天気のいい朝、4時間で滅びたミライの村。
それは紛れもなく過去に人間が引き起こした現実であり、同時に再び「ロープにはね返っては戻ってきて」引き起こしかねない未来。
陰惨な戦場からの実況中継を終えた後に、「まだ遅くはない、あなた達の未来はまだ滅んではいないのだから」とコロボックル(宮沢りえ)は言い残し姿を隠す。
‘「無力」という力を語るためにリング下に棲みついた’コロボックルに、一筋の希望を野田さんが語らせたのは楽観的未来観からであるはずはない。
世界中が催眠術にかかっている、どうしてここで止まれないのか、止まれるはずだ人類ならば…と絶叫するような祈りで綴った言霊だと思う。
無力という力。
それはイラク戦争に反対する人々の声や憲法九条を思わせる。
それほどまでに「ロープ」はストレートな作品だった。
観る側の想像力に限界を感じたのか、現状の危うさに対する焦燥感なのか、両方か。
いとも簡単に催眠術にかかってしまうウツクシイクニの民をたたき起こすには、回りくどい表現ではもう間に合わないんだよ…と苦笑する人の顔が目に浮かぶ。
八百長の元締めが本当のことを言うわけがない。
これは肝に銘じて覚えておかなきゃならん言葉の一つだ。
続く