「瞼の母」を観た その2(ネタばれご注意〜)

大竹さん三田さんをはじめとするベテラン俳優の皆さんは流石の安定感、高橋一生さんや西尾まりさんなどの若手も心のこもった芝居をしておられた。
そんな中でも私がぐっときたのは‘夜鷹おとら’を演じた神野三鈴さん。
今回の芝居で最も胸を打たれたのがおとらと忠太郎のシーンだった。

幼い時に生き別れた母を探す忠太郎が行く先々で幾人かの「母」と出会う。
三田さん演じるおむらは、愛情深く強く優しい凛とした母。
盲目の三味線弾き(篠井さん)は様々な意味で弱者であるが息子への愛情だけは揺るぎない。
梅沢さんはどこかひょうきんで温かいおっかさん。
忠太郎の生母・おはま(大竹さん)は、辛い経験を経て猜疑心も自己防衛本能も発達したやり手の女将で、母としての素直な心情を取り戻すのに時間がかかる。

それぞれの「母」と接するにつれ、息子としての忠太郎も少しずつ彫が深まっていく。
おむらに理想の母をみて甘え、三味線弾きの老婆には労りの心を寄せ、幸せそうな親子を蔭から羨み、おはまに対してはまっすぐに長年の思慕をぶつける(が拒否されてしまう)。

様々な母との出会いがあった中、夜鷹のおとら(神野さん)とのシーンになぜ私は最も心を惹かれたのか。
それは、忠太郎とおとらとの間に紛れもない心の絆が感じ取られたからだ。
客を取れないほど年老いてボロを纏った夜鷹に、忠太郎は優しく声をかける。
母親ではないとわかっても慈しみの言葉と共に生活の糧を手渡す。
そんな忠太郎におとらは死んでしまった息子の姿を重ねる。
つまりここでは、実際の血の繋がりはないものの求めあう親子の心情はぴたりと一致しているのだ。

別れ際の二人は、マグダラのマリアとイエスのようでさえあった。
あなたがたのうち罪を犯したことのないものだけがこの女に石を投げなさい…というイエスの言葉が自然に心に浮かんだのだが、芝居後にパンフレットを読むと神野さんがこんなことを言っておられた。
「彼女の人生でわずか数分の出来事でも、一人の母として人間として扱ってもらえた。忠太郎かキリストかぐらい…」

だからこそ神野さんのおとらはマグダラのマリアのようだったし、あのシーンの忠太郎はイエスのようであったのだ。

この、心の通い合う美しい場面のあとに、生母との決別が待っている。
それだけに切なくやるせない。
そして私には生母おはまの気持がわかりかねた。

続く