母のこと(その15)

その一通に鹿児島にいる父の親戚から、心のこもった弔電があった。

「一度もお目にかかれませんでしたがお電話で何回かお話したときの明るい声が忘れられません。お互いに好きな歌手の、平原綾香秋元順子の話をしましたね…お会いしたかった」

そんな内容だった。
弔電はどうしても一般例文のようなものが多くなると思う。
それでも十分に御弔意は伝わるが、この電報からはその時の会話や笑い声まで伝わってくるようだった。

この文章を目にしたときだったと思う。
私が首にしていた母のブラックパールがはらりと外れた。
留め金はねじまき式で、朝つけるときちゃんと留めたのに。
Yさんはそれを見て小さく「あ…」と呟いておられた(後できいたところ義兄は気付かなかったらしい)。

あまりに静かに外れたので(胸元から滑り落ちる前に手で押さえられたし)、私自身その瞬間は何とも感じなかった。
すぐにつけなおし、それ以後は緩むこともなくて外れたことを忘れていた
(19日の夜に家族でわいわい話していた時にふと思い出すまで)。

これとて単なる偶然だと思えば思える。

この弔電が告別式で読み上げられた時、遺族・親戚はもちろん参列の皆様も多くの方が泣いて下さった。
おそらくどの方の胸にも母の明るくよく透る声が甦っていたのだろう。

告別式では両親ともに親しくしていただいたS川さんの弔吟も頂いた。
S川さんは元々父の大学時代の同級生で、奇遇にも現在両親宅のご近所に夫婦でお住まいになっている。
今年秋に大学の同窓会があるらしく、その折には夫婦同伴で出席しようと決めていたと父から聞いていた。

S川さんはこんな弔辞を述べて下さった。
「今度の同窓会でS川さんの詩吟を聞かせてね、と貴女から言われていたのに。それも叶わぬこととなってしまいました。せめて今日ここで、お約束の詩吟を捧げたいと思います。」

詩吟についての知識が全くなく、その深い意味についてはわからなかったけれども、真心のこもった温かい声と遺影を見つめるS川さんの寂しそうな横顔は忘れられない。

喪主の挨拶は父が原稿を用意せずに行った。
倒れた時の様子、突然のことに戸惑っているけれども残された家族はこれからもしっかり生きていくということ、そして母に代わって生前お世話になった皆様への心からの感謝。

立派な挨拶だったと言ってしまおう、わが父ながら。

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