昨日のこと・今日のこと・明日のこと

明日はドラ(息子・仮名)の運動会、残暑バリバリモリモリ運動会。
運動会と言えばお弁当、お弁当と言えば筑前煮(うちだけか)なので、本日は買いだし・仕込みをせねばならない。
その他ヤボ用も幾つかあってバタバタの金曜日なのにー。

なのに書きたいの、どうしても書きたいの!
そうさ昨日のドラマのことさ!
それでも、生きてゆく」最終回…(ここからネタバレ含みますので未見の方はご注意をば)。

感想をひとことで言うならば「美しくてズルい終わり方」だった。
いやもう、あれしかないんだろうなという…美学が貫かれた着地の仕方。
そのずるさも含めて心を鷲掴みにされた。
何がズルいって、傷を抱えて真面目で綺麗で不器用な若い二人が、傷を抱えて真面目で綺麗で不器用なまま、永遠にそのまま、永久凍土に眠るマンモスみたいに(喩が変ですよ…)キープされる距離感で生きていくこと。
そして登場人物たちの‘その後’を観た人がそれぞれに、いかようにも想像できること。
さらにあの結び文だ…手紙じゃなくて結び文。
文通ですら生々しいという美学か!抑制の美か!外科室か!と、その部分だけはなんだか地団太踏んだけど、あれはいわば象徴的なシーンであって本当は文通くらいはアリなのよという作者の声みたいなものも聞こえなくはないんだけど(日本語も脳みそも変ですよ…)、なんつうかね、やられましたね…。

ああ日本語能力低い…。

地団太踏みながらもちゃんと納得した。
途中から涙が止まらなくなった。
不思議なことに、洋貴と双葉のシーンでは左目からばかりボロボロ涙がこぼれ、その後の文哉のシーンは両目からダーダーと。
そんな経験は初めてで、泣きながら「なんだコレ?」と奇妙に感じて先ほどネット検索してしまった。
そうしたらばこんな記事が見つかった。

「右目から涙が出る意味は、罪悪感や自分へのいつわり、それから、自分を押し殺しているときに出ます。左目から涙が出る意味は、罪悪感や感情の解放です。」

へえええーーーー。
そうかそうか、二人のシーンは感情を解放したけど文哉のシーンは無意識に自分を押し殺してもいたわけだ、あーーーそうかーーーー。
(上の記事は科学的に裏付けされたものではないだろうけど、なんとなく腑に落ちたもので。単なる偶然かもしれないし。)
(具体的なことは書けないけど、文哉に過去の自分をオーバーラップさせた点があったので最終回での彼の着地点もとても気になっていた。)
(独りよがりの文章で申し訳ありません…いつもだけど…泣。)

なんにしろ、このドラマも「Mother」同様‘母と子’の渦巻きから逃れられない宿命を根底に描いたものだったと思う。
少年犯罪、被害者家族と加害者家族、命と向き合う心と命を感じられない心。
そんなテーマだけでも重いのに、そのバックボーンには母子(或いは親子)関係ですよ…重くないわけがない。
でもだからこそ引き込まれたんだよな、うんうん。

血のつながりがなくても「母」になろうとする双葉。
実母に飢えて、母というものを渇望して壊れてしまった文哉。
子を奪われた母親は「母親じゃなくなるんじゃなくて人じゃなくなるのかも」という響子。

ぐるぐると、母と子の渦巻きが、鳴門の渦潮のようにぐるぐると…。

ここいらへんを掘り下げだしたらキリが無くなり底なし沼にずぶずぶいきそうなのでやめとこう。

なにはともあれお見事な作品であった、このドラマに関わった方々に感謝…!

あとねあとね、関係ないけどもうひとつ言いたいのはね、今日すまさんたちが北京でコンサートをするんですけどね、これがもうやたらめったら政治的に語られてますけどね、実際そういう要素もたっぷりなんだとは思いますけどね、コンサートそのものはスマさんたちも参加した人たちも純粋に楽しめてたっぷりと喜べるものになりますようにと、またまた禿げそうになりながら祈っています!ということです!
そして彼ら5人ならなんの心配いらない、と禿げそうになりながら信じています!ということです!

悪文ならだれにも負けない気がしてきた…。

まだ書き足りないのですが本日はこれにて、もう本当に書き散らかしの愚かな日記ですみません!