「歌わせたい男たち」を観た その4
何をそんなに堪えていたかというと、その3にも書いたが「現実に起こっていること」への底知れぬ恐怖感だ。
国旗や国歌への起立を強要し、従わないものを処分する。
そんなことが実際に行われ始めた教育の現場。
愛国心とやらを強調し始めたエライ人たち。
過半数を手に入れて憲法を変えようと躍起になっている政権政党。
貴方達は本当は何がしたいのですか。
私はサヨクではない。クリスチャンでもない。
普通に「生まれ育った国」を愛している。そして普通に「今」を憂いている。
国の旗に起立してもしなくても、国に対する気持ちは変わらないと考える。
それが国の歌だというのならば何かの折に歌おうとも思う。
ただし、その歌詞と歴史的な意味合いを考えると「君が代」は時代錯誤だと感じるし起立して歌えと強要されることには甚だしく違和感を覚える。
つまりはあれですよ。
「強制ということではないことが望ましい」、その言葉に尽きるわけですよ。
それを仰ったのは現在の天皇陛下なわけですよ…。
ラスト近くで詭弁を滔滔と述べる与田校長は鬼気迫り哀れでさえあったけれども(ここの大谷さんも素晴らしかった!)、あれを詭弁ととらずに正論である、天晴れだと拍手さえする若者達がいまや大勢いるんではないだろうか。
あれは某都知事や某総理にそっくり重なる姿であったが、実際の彼らは与田校長の抱える矛盾や苦悩など持ち合わせてもいないのではないだろうか?
あ〜あ。書いちゃったよ。
これで私も検閲に引っかかるかもしれんな。
何しろ「共謀罪」までもが取り沙汰されている今日この頃のニッポンだからな…。
「内心の自由」なんてもはや風前の灯火なのか?
ひとつだけ付け加えたいのは「歌うも自由、歌わぬも自由」ということ。
その度量の広さ(或いは緩さ)が美徳だと信じているということ。
どちらかでなければならない、そんな狭苦しさはご免だ。
多様であることを認めることから異文化間のコミュニケーションは始まる。
それが私のゼミのテーマだった。お元気かしら、ミス・コールマン。
異質なものを認めることは時に難しいけれども。
立場が違う、理想が違う、考え方が違う…そうやって違いを並び立てるばかりでは虚しくなるばかり。
なんか柄にもなくカタイこと書いてるなー。
ついに堪えかねて泣いてしまったのはラストの戸田さんの歌だった。
続く